車で通勤途中の高台で、朝日に映える富士山がひときわ、きれいに見えたのは元日の朝だったからだろう。

 昨夜、大晦日の夜までおせち料理のご予約のお客様への引き渡しがあり、お引き取りのお客様一人一人に「ありがとうございました。良いお年をお迎えください」とお礼の言葉を述べたとおりに、自分にとっても新年の朝は本当にすがすがしく、昨夜までの疲れも吹き飛んでしまうほどであった。 昨年春の定期異動で店長に昇進し勤務店舗も変わった。そして夏が過ぎ秋が過ぎ、年が明けて、店長として新年を迎えた彼。「元旦はオープンから、みずからお客様をお迎えしたい」と28歳の彼は思った。

 元日の朝も変わりなく出勤してくださったキッチンのパートさん、フロアーのパートさん一人一人に「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。今日の出勤、ありがとうございます」と挨拶をした。

 いつものように、キッチンシューズを履いて、ネット付きのキッチン帽子をかぶり、胸までの長いエプロンをつけ、手を入念に洗ったあと、キッチンの中に入り、冷蔵庫、冷凍庫内の食材をチェック、キッチン内の清掃状況も確認した。仕込みのパートさんにも今日の売上目標を伝え、「今日もよろしくお願い致します」と声を掛けた。

 フロアーのパートさんが接客六大用語を唱和している。どのパートさんも指示をしなくても、自主的に業務を淡々とこなしている。その姿に感心もし、尊敬の念さえ生じてくるのがわかった。 午前10時のオープン5分前。去年4月から一緒にこの店に配属になった高卒女子の新入社員も10カ月がたち、フロアーのユニホームもよく似合うようになった。後ろで束ねた髪をシニヨンに包み込んで、全体にこざっぱりとした清楚な感じで、店長の前に立ち「店長、駐車場の見回り済みました」と報告した。

「よし、オープンだ」

 フロアーのパートさん2名はステーションでの作業をお願いして店長と女子社員の二人で玄関前に立った。

 間もなく、ゆっくり歩いてくる老夫婦と思われるお客様が並んで向かってくる。すかさず、女子社員が動いた。ドア前で待ち、彼女はドアを開け「いらっしゃいませ。明けましておめでとうございます」とお店の中にお招きした。店長も同じように明るくご挨拶をした。

 初詣でを済ませて来られたようで、白髪の奥様は和服を着ていらして、ご主人は三つ揃いのスーツで、破魔矢(はまや)を手にされていた。

 女子社員がお席にご案内してメニューをお渡しし、いったん下がって、おしぼりとお茶をお持ちした。

 奥様が「おぞう煮のメニューを二つ、お刺身の盛り合わせを一つ、それにお酒を一本、お願いします」と女子社員に注文した。

 オーダーを受けてステーションに戻り、お刺身盛り合わせを先につくっていただくことをお願いした。

 女子社員が出来上がったお刺身盛り合わせと人肌のお酒をお席にお持ちしてお店の盃を置こうとすると、「お盃は持ってきたんです」と、奥様は和装の手提げ袋から小物袋を取り出し、その中から朱塗りの盃を出し、ご主人と自分の前に置いた。

 奥様がお銚子をご主人に向けると、ご主人は両手で盃を持ってそそいでもらい、それをテーブルに置き、奥様から銚子を受け取って、今度はご主人が奥様の盃にそそいで上げ、ふたりで盃を持って「明けましておめでとうございます」と盃を上げた。

 お刺身を召し上がりながら、お酒を2、3杯、召し上がったところで、おぞう煮のセットメニューをお席にお持ちした。

 ゆっくりと、にこやかに、新年を迎えられている老夫婦のお客様を見ながら、店長はこの穏やかな新年の始まりに心が洗われる思いがした。

 それから間もなくして、初詣でのあとの和服姿の若いカップルや、お友達同士、ご家族、三世代ご家族や、ご親戚様とご一緒の団体様も来店され、日中からディナーに掛け、お客様の来店がつづいた。

 それでも午後8時を過ぎると落ち着いてきて、店長はチーフ、社員に任せ、事務所で書類の整理を始めた。

 フロアーでは、午後9時を回ってから、振袖姿のお客様が来店され、お一人様なのに、お雑煮のセットメニューを二つ注文された。チーフがテーブルにお持ちすると、「店長さんを呼んでください」と言う。

 店長は心地よい疲れを感じながら帰ろうとしていたところで、「お客様が店長をお呼びです」というチーフの声に、「何か、あったのか」と緊張した声を上げた。「いいえ、お客様が呼んでください、と言っていますので…」とチーフは言った。

 何だろうと思いながら、フロアーに出てみたが、どのお客様かわからずチーフに聞くと、「後ろ向きのお振袖のお客様です」と教えてくれた。

 お席に行って「いらっしゃいませ。お呼びでございましょうか」と、顔を見て驚いた。前の店でチーフで勤務していた時、とても気が合った女子社員であった。

「お久し振りです」と彼女は言った。「どうしたの?」と驚くように店長。

「一緒にお正月をしたかったの。おぞう煮、たのんでおいたわ。夕食はまだでしょ。さあ、座ってください」と彼女。

 彼は涙が出そうになった。結婚したかったほど好きな彼女だった。彼が前の店で店長の内示を受けたあと、なぜか彼女は退社して実家に帰ってしまった。

「どうしたの?」ともう一度、彼は聞いた。懐かしさもあり、責めたいような気持ちもあり、いろんな感情がないまぜになったが、やはり逢えてうれしかったことが一番で、止められない涙がひとすじ、ほほを伝った。

「お父さんとお母さんに、あなたと結婚したい、と言いに行ったの。そうしたら、お母さんが、嫁ぐんだったら、きちんと料理をおぼえて行きなさいと言われて、昨日まで教えてもらっていて、やっとお母さんが、合格よ、と言ってくれたの」「そうか」涙がもうひとすじ流れた。

「君のお父さん、お母さんに挨拶に行かなくちゃな」と、彼はポケットからハンカチを取り出した。

「お父さん、お母さんも一緒に来ているの。ほら、あそこの席。ずっとあなたのことを見ているわよ」と目で示されたほうを見ると、人の良さそうな、ご夫婦が頭を下げている。

 彼は、びくんとして、「挨拶に行ってくる」と席を立った。

「すぐに戻ってきてよ。ぞう煮が冷めちゃうから。元日に、あなたとぞう煮を食べるのが夢だったのよ」 きちんと彼女のご両親に挨拶をして、席に戻って、彼女とぞう煮を食べながら、彼は今朝、最初にご来店された老夫婦のお客様のことを思い出していた。

(世界の中心に愛がある、ということを信じている孤独な編集長より)