出勤途中、散り始めた梅を見ながら、つくづく関東の春の早さを思う。

 札幌の大学を卒業して関東の店舗に勤務して4年目を迎えようとする彼。千葉から神奈川の店に異動になって1年が過ぎようとしていた。

 お店に出勤して更衣室でフロアーの仕事着に着替える。2カ月前にキッチンからフロアーの仕事に移った。着替えて姿見の鏡に映った全身を上から順に目線を下げていくことを習慣にしているが、まず髪の形をチェックする。

 次にワイシャツの両方の襟の先を親指と中指でつまんでピンと伸ばし、ネクタイをきちっと締め上げ、ズボンの太もものちりを払うように両手の指でササッと払い、今度は後ろ向きになって、首だけを鏡に回し、後ろ姿全体をチェックする。

 そして前を向いて笑顔。「練習した分だけしか結果は出ない」とスポーツ選手がよく言う。彼もそう思っている。もう一度、笑顔!

 靴をはく前に、手にとって靴の底までチェックをしてから、きれいに磨かれているか、靴の踵(かかと)は減り過ぎていないか、それから、おもむろに踵(かかと)が折れないように、靴べらを使ってきちんとはく。(靴の踵の折れじわはお客様の食欲を失わせる…)とつぶやく。

 ステーションに貼ってある接客六大用語を、お客様を想像しながら一語一語噛みしめるようにゆっくりと心を込めて発声する。(これも練習…)

 その後、入念に手を洗って、フロアーに出る。彼はフロアーに出ていく前に決まって一礼をするが、そこには空手や柔道、剣道の試合の始まりのような、ピーンと張り詰めたものがあった。

 オープン前の静かなフロアーを見渡しながら、右に左にと目を動かしながら、何か異変がないか、たとえば、壁に貼ってあるポスターが真っすぐ貼られているか、テーブル上のスタンドメニューがきちんと置かれているか、紙ナプキン、スティックシュガー、爪楊枝などは量も確認しながら見て行き、玄関を出る。

 すでに清掃が終わっている駐車場をいくぶん早足で見て歩き、特に風のある日は角々で足を止め、ゴミがあれば、ポケットに忍ばせておいたビニール袋に入れて回収する。玄関に戻って、表側から玄関を見回し、ガラス面に汚れが残っていないかチェックをする。特に取っ手付近の指紋があれば、中側、表側ともにしっかりと拭き取る。何もなくても、から拭きをしておく。ウエーティングルームでは椅子に座ってみて、特に目が行く天井を入念に見る。

 そして、トイレに入る。洗面台が濡れていないか、便器、床をチェックする。洗面台は汚れていなくても、改めて、から拭きをする。まれに清掃用具入れのドアを開けて見るお客様がいらっしゃるのでここもチェックをする。(整理整頓…)と頭の中にこの4文字の漢字を浮かべる。

 最後に手をしっかり洗って、水気は残さないように拭き取る。トイレ点検を終えてフロアーに出ると、間もなくオープン時間。お客様を迎える準備はできた。

 キッチンにいた3年間も、彼は「磨き屋」と言われるほど、少しの時間でもあれば鍋や調理台をぴかぴかに磨いていた。

 彼の心に浮かぶのは、彼の兄からの1枚の葉書。高校卒業と同時にフランス料理のコックになる、と札幌から東京に出て行った兄。6年ほど音信不通だった兄から届いたセーヌ川とノートルダム寺院の絵葉書。もう黄ばんできているが、大切にしている絵葉書に書いてあった言葉。「パリに来て3年になるが、朝から晩まで、俺のやっていることは、鍋と調理場磨きだけ。それだけでも俺は強くなったと思う」

 (世界の中心に愛がある、ということを信じている孤独な編集長より)