3月に入って、梅が盛りを過ぎて散り始め、白梅の花びらが胸の中にまで降りしきるようで、不意に寂しさを感じたりする。

店長になってから十年があっという間に過ぎた東北出身の彼。この半年あまり、実家の父親の病状が思わしくなく、何度か実家に帰ることがあった。その父親も力つきて亡くなり、葬儀を済ませ、その四十九日法要も母親と二人きりでいとなんだ。

 父親の葬儀の時、おおぜいの仲間が励ましてくれた。自分にはこんなにもおおぜいの仲間がいたんだ、と改めて知ったほどだ。その情けの深さに葬儀の祭壇の前で、父親のほほえんでいる遺影を見た時、父親が「よかったな」と言ってくれているようで、こらえきれずに涙がこぼれた。

 親孝行らしい親孝行ができなかったな、と悔やんだ。彼が初めて店長になった時、わざわざ父親と母親が二人で特急電車に乗って、勤務店舗まで来てくれた。そのうれしかった思い出が今もよみがえる。二人がお店に来てくれたのはその一度きりでしかなかった。

 妻とは若いころ、一緒の店で仕事をしていた。美しくてまぶしくて、ライバルはたくさんいて、結婚をしてくれるなんて思えなかった。その彼女に思い切ってプロポーズをして、彼女がうなずいてくれた時、うれしくて絶対に幸せにしようと思った。そう思いつづけて今も頑張っている。子供ももう小学校にかよっている。

四十九日法要の時に、母親に「母さん。落ち着いたら、関東にきて一緒に住まないか?」とすすめてみた。

「ありがとう。父さんを一人で置いていくわけには行かないから、私はこっちにいる。それにこっちにはたくさん、お友達もいるしね。淋しくなんかないから。それより、あんたたち一家が健康で幸せでいることが、母さんには一番の元気のみなもとさ。さあ、早くお帰り。あんたの家族も、それにあったかあい仲間もあんたの帰りを首を長くして待ってるよ」

 母親は気丈(きじょう)に、降り積もる雪を載せた竹のような、しなやかな強さを見せた。彼は母親にもまだまだ教えられるものがあるなあ、と心の中で思った。

「わかったよ。母さん。俺、帰るわ。俺も電話するけど、母さんも時々電話をくれよ。安心できるから」と彼は両手でひざをつかんで、涙が落ちようとするのを耐えた。泣き笑いの彼に母親は「ほらほら」と彼を立たせた。  父親が入院して危篤の知らせがあり、新幹線と特急を乗り継いで病院に駆けつけた時、彼を待っていたように、父親の意識はまだはっきりしていた。

 待っていたぞ、という顔をする父親に、涙もろい彼はとめどなく流れる涙を拭こうともせず、「父さん。仕事って、格好をつけて、自分だけで考えてやろうとするものではなく、わからなければ、素直に頭を下げて教えてもらえばいいんだよね。仕事の深さを四十近くにもなって、やっとわかりかけたような気がする。どうしようもない息子だよね。俺って」と語りかけた。父親の最期という時に、こんなことしか言えないのか、と彼は思った。

 しかし、父親は一瞬、生気を取り戻したように語り始め、「そんなことはない。そのことを一生、わからないで終わる人もいる。遅くはない。わかっただけ大人になったということだよ。よしっ!」と彼の目を見つめた。 こんなに父親に見つめられたのは、何十年ぶりだろう。その言葉はまるで遺言のように彼の胸に響いた。

 母親との二人きりの四十九日法要を終えての帰り、真っ直ぐ自宅に戻らず、妻と孫に、と母親から持たされたおみやげの入ったバッグを片手に、彼は初めて店長になった時の店舗に寄ってみた。

 テーブルに座る彼に、永く勤めているフロアーのパートさんが、「お久し振りでございます」と、おしぼりとお茶を出してくれた。そして、「お父様、ご愁傷様でした。一度、いらっしゃいましたよね。お父様とお母様で。あの時、おみやげもいただいて、本当に…」と言って、あとは言葉を飲みこんで、頭を下げた。  親父とお袋がお店にきてくれた時、この席に座っていたんだよな、と彼は思った。「おぼえてくれていたんだね。ありがとう」と彼。

「今日は何かご用で?」とパートさん。

「うん。今日はあの時のように、親父とお袋を連れて来たんだ」と彼が言うと、彼女はあたりを見回した。 「いや、冗談、冗談。親父の四十九日の法要の帰りさ」と彼は顔の前で手を振り、ほほえんだ。

 彼女は、なあんだ驚かせないでくださいよ、という顔で胸に手を当て「淋しくなりましたね」と言ってくれた。彼女の眉が八の字になっている。

「そうだね。でも今回も、父親にも母親にもたくさん教えられたよ。心配ばかり掛けた親不孝者だったな、と反省するばかりですよ。実家からの帰り道、この店に真っ直ぐ寄って、気持ちの上で、もう一回、心を新たにしてみようと思ったんだ」と彼は彼女の目を見て、唇をしっかり結んだ。

「そうでしたか。ごゆっくり、どうぞ」とパートさんのあたたかな声が心の中だけでなく、店内にもゆっくりひろがっていくようであった。

 (世界の中心に愛がある、ということを信じている孤独な編集長より)