夏の使者のような、白い清楚な花をつける夏椿が咲き始めました。夏椿の別名はシャラノキ(娑羅樹)。昔、ある僧侶が、お釈迦様が悟りを開いたとされるサラソウジュ(娑羅双樹)の木が、この木だと思い込んだところからシャラノキと呼ばれることにもなったようです。涼しげで、品があり、この花を見ていると心が洗われる思いがします。

 筆者は戦後生まれで、昭和20年代に小学校に通いました。小学校入学式の日の登校前の記念写真が残っています。父は北海道旭川の製紙工場に勤めていましたが、写真が趣味で当時のマミヤのカメラを持っていました。  入学式の朝の写真はそのカメラで撮ってくれたのだろうと思います。

社宅前の雪解け道に立って、小さな私は大きな学帽をかぶり、金ボタンの紺の制服に、紺の半ズボン、いつころからなくなったのか、膝から下は毛糸で編んだ脚絆(きゃはん)をはいています。

 米は配給の時代で米穀通帳を持って、社宅内にあった米屋で配給を受けました。棟長屋(むねながや)のような社宅ですから、隣近所の関係が濃密で米、味噌、醤油がなくなれば、貸したり借りたりし合ったものです。

 大体の母親が家計を助けるために、今はパートさん、アルバイトさんと呼ばれていますが、当時は「出面取り(でめんとり)」と言って、特に近郊農家の田植えや、たんぼの草取り、稲刈り、馬鈴薯などの野菜の収穫時、いわゆる農繁期に近所の奥様方と連れ立って、日銭(ひぜに)を稼ぎに行っていました。

 そんなことで母のいない日もあって、小学校の夏休み、暑い夏の日だったと思います。お昼に弟とふたりきりで、おなかが空いて、釜に冷えたご飯はあったのですが、おかずらしきものが見当たらなかったのです。

 そこで弟とふたりで、近くの小川に行き、ドジョウをすくってきて、小さなドジョウの腹をさいて、開きにして、フライパンで焼き、醤油と砂糖をからめ、かば焼きのようにしたのです。

茶碗にご飯を八分目ほど入れ、ドジョウのかば焼きを載せ、弟とふたりで、かき込むようにして食べました。

おなかがふくれた二人は眠ってしまい、雷の音で目が覚め、雷にへそを取られるという大人の言葉を信じていましたから、ふたりして、へそを取られないように抱き合って大声で泣いていたような、今となってはそれも夢かもしれないような思い出が残っています。

 とんでんでは夏季限定で、ランチタイム(月曜日~土曜日の開店から午後3時まで)にかぎり、1380円のうな重を1100円、1580円のうな重・そばを1300円で提供しています。