江戸時代の庶民の初詣(はつもうで)は恵方詣(えほうもうで)とも言われ、自分の住まいから見て恵方にある寺社に詣でることでした。

 恵方というのは、吉神様(歳徳神様=としとくじんさま、とも言う)がいらっしゃるほうは神様の力によって悪い神様の影響を受けない方向とされ、明の方(あけのかた)とも呼ばれています。

 方向は、十干の申・己(きのえ・つちのと)年が東北東、乙・庚(きのと・かのえ)年が西南西、丙・辛(ひのえ・かのと)年が南南東、丁・壬(ひのと・みずのえ)年が北北西、戊・癸(つちのえ・みずのと)年が南南東と五通りありますが、南南東が重複しているので実際は四通りしかありません。

 今年は戊・子(つちのえ・ね)年で、やや東寄りの南、つまり南南東に向いて恵方巻をいただくと良いようです。

 このような習慣は関西から広まったようで、今では全国のスーパー、コンビニで販売されるようになって、黙って恵方を向いていただくかどうかは別にして、全国的に海苔巻を食べる日になってきているようです。

 今年の2月3日は日曜日。節分の日であり、子供のころは父親が仕事から帰ってきて鬼の面をかぶり、子供たちがその鬼に向かって「鬼は外、福は内」と豆をぶつけたりする姿がどこのうちの障子にも影絵のように映っていたものです。住宅事情が変わって、外から障子が見えるおうちというのは、なかなか目にすることはなくなりました。

 翌朝は、どこの玄関の前も豆がまかれた跡があって、ほほえましく思ったりもしたものです。

 午後10時を過ぎて、「お先に失礼致します」と若い男女が二人、近隣の店舗ではあったが、別々のお店をあとにした。

 二人はお店から恵方にあたる小さな祠(ほこら)の前で落ち合った。彼が自分のお店で買ってきた恵方巻を取り出し、そのうちの1本を彼女に渡す。この祠からの恵方は彼女の実家がある千葉の房総方面であった。黙ったまま、二人は恵方を向いて恵方巻をゆっくりいただいた。

 二人は4年前に同期入社で、彼は4年制の経済学部系の大学卒、彼女は食物学系の短大卒で、いくつかの紆余曲折(うよきょくせつ)があったものの「やっぱり、この人が好き」と結婚の意志を固めた彼であった。

 恵方巻を食べ終わって、彼は言った。

「来月3月3日、月曜日は君の誕生日。公休をもらって、君のご両親にご挨拶に行く」

「決めたの? ほんとう?」と目が輝く彼女。

「ほんとうさ。もちろん、君がよければ、だけれど」まだ、自信のない彼。

「そろそろかなと思ってたけど、今日なの?うれしい。ほんとうに?」

瞳が星ほどにきらめきはじめた彼女。

「そうか。オーケーなんだね」彼の目も輝きはじめた。

「そっちこそ、私でいいのね」彼女の両手の指は胸の前で組まれている。

「うん。よかった。女のひとに初めての告白で振られなくて」頭をかいている彼。

「初めて?」少しからかうように言う彼女。

「初めてさ。ものすっごく緊張した」と彼は初めて笑う。

 つられて彼女も笑った。

「お参りしよう」

「うん」

 梅の甘い香りがふたりの鼻孔をくすぐった。春は始まっている…。