今年の関東は、7月のカレンダーをめくってやっと梅雨明け宣言という何ともフラストレーションの溜まる夏の始まりでした。

 夏休みに入った子供たちにしたって、朝からかんかん照りのお日様に、にこにこ顔で肩に大きな浮輪をかけて、うしろから車にクラクションを鳴らされながらも友達とはしゃいでプールに向かうのが本来の夏なのだ。

 帰り道の夕立だって、シャワーでも浴びるかのようにきゃあきゃあ言い合いながら、さして急ぐでもなく、げらげら笑いながら雨の中を濡れて帰るのがたまらなく好きなのだ。それでお母さんに怒られたにしても。

 午後2時を過ぎて、突然の雷雨に見舞われた。1台の車が雨をついてお店に向かってくる。ワイパーが、まるでばしゃばしゃ音を立てて激しい雨をはじいているのが聞こえてくるようであった。玄関近くの駐車場に停め車のエンジンが切られた。

 雨脚(あまあし)がおとろえてくるのを待っているのか、降りる気配がない。車のナンバープレートは山梨ナンバーであった。いくぶん、雨の勢いが落ちてきたところで、昨年入社の男子社員が大きめの傘を差して出て行った。左手に別に傘を持って。

 運転席の窓ガラスをこつこつと叩いて、「お客様、どうぞ」と傘を指で示した。運転席側のパワーウインドーがしゅーっと下がって、若い男のお客様の顔があらわれ、どうも、と軽く頭を下げる。

 フロアー担当の彼は「よろしかったら、どうぞ傘をお使いください」と傘を持つ手を少し振る。後ろの席には、小さな赤ちゃんを抱いた若い奥様が見えた。

「すみません」と言ったのは奥様のほうだった。

「じゃ、お世話になろうか。降りるぞ」とご主人。まず、降りてきたご主人にフロアー担当の彼は「お客様、こちらの傘をどうぞ」と彼が差していた傘を渡す。

 そして「私は奥様とお子様に傘を差して、お店にご案内致します」と続け、もう1本の傘を開いた。その時、すでにフロアー担当の彼の顔には雨があたって、しずくが流れている。

 ご主人は彼から受け取った傘を片手に後部ドアを開ける。奥様がお子様をかかえて降りてくるのをすかさず、フロアー担当の彼が傘を差す。

「うわあ」と奥様は一瞬、声を上げる。

「お客様、お先にお店へどうぞ」とご主人に声を掛けると、ご主人は車の後部ドアを閉め、車のキーをロックして急ぎ足でお店に向かった。

 フロアー担当の彼は、自分が濡れるのもかまわず、親子に傘を差し、お店に入る。入ると、パートさんが乾いたタオルを持って「いらっしゃいませ。少し濡れてしまいましたね。お拭き致しましょう」と赤ちゃんの顔にほほえむようにしてから、赤ちゃんの服とお客様の肩などについた雨のしずくを拭いて差し上げた。

 奥様が傘を差してくれた彼に「大丈夫ですか。ありがとうございます」と頭を下げる。彼の頭は濡れて、まるでプレー中のサッカー選手の頭のようになっていたが、笑顔でご心配なくという顔でこたえる。

「和食レストランという看板を見て入りました。畳の席はありますか」と赤ちゃんをよしよしするようにして奥様は聞いた。

「はい。ございます。どうぞ。お席にご案内致します」と、乾いたタオルでお迎えしたパートさんがバトンタッチするようにお席にご案内した。

 メニューを差し出すと「おなかすいたな。お鮨があるぞ。何にする?」とご主人がうれしそうに奥様に声をかける。「私もお鮨」と奥様。 「それじゃあ、さざんかで決まりだ。天ぷらもそばも茶碗蒸しも付いている」とあごをなでながら、奥様の目を見る。「私も食べたい。おなか、ぺこぺこだもの。それにソフトクリーム」と奥様。二人は互いにおかしそうに笑う。

 お二人の会話をほほえましく聞きながらご注文を受けた。

 お食事が出そろう前に、奥様がお呼びになった。

 お席に行くと奥様から「すみません。これにここまでお湯を入れてください」と、粉ミルクの入った哺乳瓶を手にお願いされ、パートさんは笑顔で「かしこまりました」とお受けした。 そして数分して哺乳瓶をお持ちし、「ほどよい温度に冷ましてお持ちしました。私も2年前まで飲ませていましたので」とお伝えすると、「ありがとうございます」と奥様はえくぼをへこませた。

 そのあとすぐに、「お待たせ致しました」と料理を運んで来たのは、濡れた頭をととのえ、濡れたワイシャツを着替えたフロアー担当の男子社員だった。

 整髪仕立ての彼の顔を見て、お二人は少し驚いたような顔をして「先ほどはありがとう」と言ったのはご主人の方でした。